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生い立ち3
昭和13年〜昭和18年


 

昭和13年(1938)  25さい

 3月31日に、安城高等女学校の辞令(じれい)を受けました。この日の日記には、「さて、ぼくは女学校の先生です。何だか、ヌクヌクして歩いている。」と書かれています。4月からは、1年生56名の担任となり、1年から4年までの英語と、1・2年の国語を教えました。若い少女たちと希望にみちた生活が始まりました。

昭和14年(1939)  26さい

 生徒たちの書いた詩を集め、生徒詩集を発行しました。第1集は「雪とひばり」です。この詩集は、第6集「星祭り」で終わりになりました。休刊の理由は、紙の不足です。
 この年、親友の江口榛一からハルピン日日新聞へげんこうを出すようにたのまれました。発表の場を失っていた南吉は、よろこんで小説や詩を送りました。「最後の胡弓(こきゅう)ひき・久助君の話・花を埋(う)める・屁(へ)・家」など、7へんの小説と21へんの詩がのりました。南吉の創作意欲は、再び燃えあがりました。
 学芸会のきゃく本「ランプの夜」や「春はなし畑から」などを書くとともに、生徒の詩や作文の指導にも力を注ぎました。
 詩「父・牛・でで虫」などをつくったのも、このころです。南吉は、「川」、「嘘」(うそ)を「新児童文化」に、「銭」(ぜに)を「婦女界(ふじょかい)」に発表しました。「川」と「銭」は好評(こうひょう:ひょうばんのよいこと)で、作家として認められるようになりました。
 昭和16年には、良寛(りょうかん)物語「手まりと鉢(はち)の子」が東京で出版されました。

昭和17年(1942)  29さい

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 1年生から担任を続けた生徒たちが、3月に卒業しました。
 10月には、南吉の第1童話集「おぢいさんのランプ」が、有光社から刊行(かんこう:本などが発行されること)されました。さし絵は、棟方志功(むなかたしこう:版画でたいへん有名な人)のものでした。
 南吉は、この年に「牛をつないだ椿(つばき)の木・和太郎さんと牛・百姓の足 坊さんの足・花の木村と盗人(ぬすびと)たち・鳥山鳥右エ門(とりやまとりえもん)諸国(しょこく)をめぐる」など、代表作となる作品を一気に書きあげています。彼の短い人生の中で、いちばんじゅうじつした時期でした。
 戦争一色であった当時の世の中で、こうした平和で人間のあたたかさにあふれた作品を書き続けた南吉は、たいへんすばらしい作家だと思います。

昭和18年(1943)  29さい7か月

 1月の初めから南吉は、寝こむようになりました。病気は重く、2月には女学校を退職(たいしょく:しごとをやめること)しました。
 死を覚悟(かくご)した南吉は、最後の力をふりしぼって、「狐(きつね)・小さい太郎の悲しみ・疣(いぼ)・天狗(てんぐ)」などの童話や小説を書きました。「天狗」は、未完の半自伝的小説で、絶筆(ぜっぴつ:その人のさいごの作品)となりました。作品の主人公の画家は、「自分の作品は死後も、次代の者たちからも親しまれるであろう。」と自分の作品に確信をもっています。
 これは、南吉自身の気持ちであったと考えられます。2月12日には、巽聖歌に、「書留(かきとめ)で、新しいのも古いのも、童話でないのも、ともかく今手もとにある未発表のものを全部送りました。いいのだけ拾って1冊(さつ)できたら作ってください。」と、手紙を出しています。
 南吉の病気は喉頭結核(こうとうけっかく:喉頭はのどのこと)でした。巽聖歌や安城高女の教え子たちが見舞いに来たときは、もう声が出ないほど病気は進んでいました。
 3月22日午前8時、常福院の前のはなれで、家族にみとられながら眠るように息を引きとりました。南吉が生前、待ちのぞんでいた2冊の童話集「牛をつないだ椿の木」と「花の木村と盗人たち」は、その年の9月に発刊されました。