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生い立ち2 昭和6年〜昭和12年


昭和6年(1931)  18さい

 この年の3月、半田中学校を優れた成績で卒業した南吉は、師範学校(先生になるための学校)の試験を受けました。しかし、体が弱くて入学できませんでした。下の2つの短歌はそのときの気持ちを南吉があらわしたものです。

   概評のか所を友らと比ぶれば我のみわろき符号つきおり
   (がいひょうの かしょをともらと くらぶれば われのみわろき ふごうつきおり)
   体格の検査に我はいれられず電車の火花見つつ帰るも
   (たいかくの けんさにわれは いれられず でんしゃのひばな みつつかえるも)

 4月から母校半田第2尋常(じんじょう)小学校(現 岩滑小)の代用教員となり、8月まで2年生の子どもを教えました。
 明るい子どもたちの笑顔に迎えられた南吉は、創作意欲に燃え、童ようや童話をたくさんつくりました。そして、それらの作品を、復刊されたざっし「赤い鳥」に投稿し、5月号に「窓」がのりました。その後、8月号に童話「正坊とクロ」、11月号に童話「張紅倫(ちょうこうりん)」、童よう「月」などが次々とのりました。ペンネーム「南吉」を使い始めたのも、このころからです。

教え子のT.Kさんのお話です。
 わたしは、子どものころ、体が弱かったのでよく欠席しました。すると、新美先生が夕方、わたしの家まで来て、勉強を教えてくれました。先生が来たときは本当にびっくりしました。わたしが欠席するたびに、病気みまいといってたびたび来てくれました。そのときに、子どもの好きそうな童話(どうわ)の本を持ってきてくれました。

教え子のJ.Sさんのお話です。
 小学校には体育館がなかったので、雨の日にはどの先生も本を読んでくれたものです。でも、新美先生は自分で書いた物語を読んでくれました。ごんぎつねの話もわたしは先生から直接聞きました。

 12月20日には初めて上京し、巽聖歌(たつみせいか)の家をたずねました。そのとき、神田・丸の内・銀座など、東京の中心を案内されたり、与田準一(よだじゅんいち)、柴野民三(しばのたみぞう)などの文学者を紹介されたりしました。聖歌から、東京外語学校の受験をすすめられ、ぜひもう一度上京しようと心に強く決め、岩滑にもどりました。  

昭和7年(1932)  19さい 

 「赤い鳥」1月号に童話「ごんぎつね」がのりました。このほかにも「チチノキ」というざっしに童ようがのり、注目されるようになりました。
 南吉は、昭和7年4月から4年間、東京外国語学校の英文科で学びました。その間、東京にいる若い文学者たちとまじわりながら、文学の勉強にはげみ、幼年童話(ようねんどうわ)、詩、小説などもこの時期にたくさん作りました。また、当時の南吉は、外国の映画を見たり、音楽をきいたり、文学を語ったりして、充実した生活を送っていたようです。
 しかし、南吉の体は、こうした中で、少しずつむしばまれ、昭和9年の2月に喀血(かっけつ:血をせきといっしょにはくこと)しました。いったんは岩滑に帰って静養し(体を休め、病気をなおすこと)、その年の4月にはふたたび東京にもどりました。
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 昭和10年には、巽聖歌のすすめで幼年童話35へんを一気に書きあげるとともに、半田の様子を取り入れた小説を4・5へん書き残しています。

「チチノキ」について 

 昭和5年、南吉は「チチノキ」という童話中心の同人雑誌(どうじんざっし:同じ考えやしゅみなどをもつ人たちが共同でへんしゅう、はっこうするざっし)に参加しました。いちばん最初に掲載(けいさい:新聞やざっしなどに、文章や絵をのせること)されたのは、童よう「一列(いちれつ)」です。その後、12へんの童ようが掲載されました。昭和10年からは、南吉もへんしゅうにかかわり、「古美北吉」というペンネームで記事を書きました。

昭和11年(1936)  23さい 

 3月16日に、東京外国語学校を卒業しました。1年生から4年生まで、英語や国語の成績はいつも「優」(そのころの通知票は優・良・可でつけられていました。「優」がいちばん上です。)でした。
 卒業のとき、卒業生たちは、おたがいのアルバムによせ書きをしました。南吉のアルバムには、13人のなかまがよせ書きをしています。その中の一人、伊藤さんは「新美さん! 別れたのちもじょうぶでくらしてくれ。」と書いています。伊藤さんは、きっと南吉のとても親しい友達だったのでしょう。
 卒業後、南吉は仕事を見つけようとしましたが、世の中が不景気で思うように就職(職業につくこと)できません。しばらくして、南吉は英語の力を生かして、東京の小さな貿易会社につとめるようになりました。しかし、10月には、再び病気にかかり、床についてしまいました。
 下宿で静養していましたが、11月16日に岩滑に帰って、病気のなおすことにしました。南吉の両親は、南吉の体のことをとても心配して、栄養のあるものを買い求めました。南吉は、そのころの気持ちを小説「帰郷(ききょう:ふるさとに帰ること)」に書いています。また、ノートにはたくさんの俳句を書かれています。
     ふるさとの月夜ぞたれか笛を吹く(ふるさとの つきよぞたれか ふえをふく)
     二つほど凧(たこ)をあげたり山の村(ふたつほど たこをあげたり やまのむら)
     病癒ゆ(やまいいゆ)
     門前に貝踏み得たり今朝の春(もんぜんに かいふみえたり けさのはる)

昭和12年(1937)  24さい

 南吉は、4月から7月31日まで河和(こうわ)第1尋常小学校(現 河和小)で、4年生の子どを教えました。そのころの気持ちを、東京の巽聖歌に次のように次のように知らせています。
「ぼくは4月から河和という海ぞいの小さい町で代用教員をしています。非常になごやかな、美しい快い所です。ここでぼくは、かりそめの、ささやかなしあわせを、味わっています。こんな所に、こんなしあわせがあろうとは、つゆ知りませんでした。生きていることは、むだばかりでないことが、これでわかりました。  昭和12年6月5日」

河和小学校時代の先生なかまの渡辺薫先生のお話です。
 昭和12年4月、校長先生にしょうかいされたときの南吉は、やせてワイシャツのカラー(えり)に指が3本も4本もつっこめるくらいでした。当時、子どもたちの中で弁当(べんとう)を持って通学した子は、先生といっしょに食事をしたものですが、南吉は、食後、よく子どもに童話を読んでやっていました。また、このころ南吉は碁(ご)をおぼえ始めたのでわたしとよく対局(たいきょく)したものです。じんとり碁でしたが、ときどきうそをつかれ逆転(ぎゃくてん)やら大敗(たいはい)やらで、大笑いしながら打ったものでした。海の見えるすずしい風のふきこんでくる、静かな宿直室(しゅくちょくしつ)のできごとでした。

 9月から杉治商会の鴉根山畜禽(からすねやまちくきん)研究所に勤めることになりました。ここは飼料(しりょう)を研究しているところです。12月からは、本社へ移りました。南吉にとってこの時代は苦闘(くとう:くるしみとたたかうこと)の時代であったと考えられます。