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生い立ち2 昭和6年〜昭和12年
昭和6年(1931) 18さい |
この年の3月、半田中学校を優れた成績で卒業した南吉は、師範学校(先生になるための学校)の試験を受けました。しかし、体が弱くて入学できませんでした。下の2つの短歌はそのときの気持ちを南吉があらわしたものです。 概評のか所を友らと比ぶれば我のみわろき符号つきおり 4月から母校半田第2尋常(じんじょう)小学校(現 岩滑小)の代用教員となり、8月まで2年生の子どもを教えました。 教え子のT.Kさんのお話です。 教え子のJ.Sさんのお話です。 12月20日には初めて上京し、巽聖歌(たつみせいか)の家をたずねました。そのとき、神田・丸の内・銀座など、東京の中心を案内されたり、与田準一(よだじゅんいち)、柴野民三(しばのたみぞう)などの文学者を紹介されたりしました。聖歌から、東京外語学校の受験をすすめられ、ぜひもう一度上京しようと心に強く決め、岩滑にもどりました。 |
昭和7年(1932) 19さい |
「赤い鳥」1月号に童話「ごんぎつね」がのりました。このほかにも「チチノキ」というざっしに童ようがのり、注目されるようになりました。 |
昭和5年、南吉は「チチノキ」という童話中心の同人雑誌(どうじんざっし:同じ考えやしゅみなどをもつ人たちが共同でへんしゅう、はっこうするざっし)に参加しました。いちばん最初に掲載(けいさい:新聞やざっしなどに、文章や絵をのせること)されたのは、童よう「一列(いちれつ)」です。その後、12へんの童ようが掲載されました。昭和10年からは、南吉もへんしゅうにかかわり、「古美北吉」というペンネームで記事を書きました。 |
昭和11年(1936) 23さい |
3月16日に、東京外国語学校を卒業しました。1年生から4年生まで、英語や国語の成績はいつも「優」(そのころの通知票は優・良・可でつけられていました。「優」がいちばん上です。)でした。 |
昭和12年(1937) 24さい |
南吉は、4月から7月31日まで河和(こうわ)第1尋常小学校(現 河和小)で、4年生の子どを教えました。そのころの気持ちを、東京の巽聖歌に次のように次のように知らせています。 河和小学校時代の先生なかまの渡辺薫先生のお話です。 9月から杉治商会の鴉根山畜禽(からすねやまちくきん)研究所に勤めることになりました。ここは飼料(しりょう)を研究しているところです。12月からは、本社へ移りました。南吉にとってこの時代は苦闘(くとう:くるしみとたたかうこと)の時代であったと考えられます。 |