やなべしょうがっこうのホームページ
生い立ち1
大正2年〜昭和4年


 南吉が生まれてからなくなるまでのことが、3ページにわたってまとめられています。南吉の調べ学習などに利用してください。ここにある「南吉の生い立ち」は、半田市教育委員会編集・発行の「新編 新美南吉代表作集」を参考にさせていただきました。なお、文中の下線で示された部分は「南吉マップ」などとリンクしています。

 

大正2年(1913)7月30日 

 南吉は、半田町(むかしは市ではありませんでした。)字東山86番地(現 生家)で渡辺多蔵の二男として生まれました。父親は、「お兄さんの分まで、元気で、かしこく育ってほしい」という願いを込めて、生まれてまもなくなくなった長男と同じ「正八」という名前を付けました。父親はたたみ屋をしていました。  

大正6年(1917)11月4日  4さい

 実母りゑ(りえ)が、30歳の若さで病気でなくなり、おさない南吉の心に深いきずあとを残しました。南吉の詩や童話の中で、やさしい母親が登場するのは、このことが理由だと考えられます。

大正8年(1919)  6さい

 父親は、継母志んを迎え、いっしょに生活するようになりました。その年、弟の益吉(ますきち)が生まれました。

大正10年(1921)  8さい

 小学校2年の夏、実母りゑの実家(現 養家)の養子となり、祖母と二人で暮らすことになりました。姓も「渡辺」から「新美」に変わりました。   
 そのころのことを、南吉は作品「川」の中で、「住なれた生活環境からぽっかりひっこぬかれ、両親も、きょうだいも、友だちも、おき去りにして、まるで違った生活の中に、おっぽりだされたのである。彼は、とまどいし、さびしさを感じていました。」と書いてあります。
 南吉は、この年の12月に生家にもどり、再び、養家で暮らすことはありませんでした。

同級生のH.Sさんのお話です。
 
小学校では、正八君と6年間つくえをならべて勉強しました。正八君はとても頭がよくていつも級長でした。そういえば、2年生の学芸会(がくげいかい)のときに、正八君が主役の牛若丸(うしわかまる)、ぼくが弁慶(べんけい)を演(えん)じたのをおぼえています。
 作文や絵をかいても、本当にじょうずでしたね。体のほうはきゃしゃ(すがたがほっそりして、じょうひんなようす)で、すもうは強くなかったですね。いつも、静かに本を読んでいる感じの子どもでした。

大正15年(1926)  13さい

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 岩滑小学校の卒業式のとき、南吉は知多郡長賞という賞を受けました。また、卒業生の代表として読んだ答辞(とうじ:卒業のときに読む別れの言葉)の中に「たんぽぽの いく日ふまれて 今日の花」という俳句を入れて、お客様や先生方を感動させたと言われています。このように、南吉は小学校を優秀な成績で卒業し、4月には県立半田中学校(現 半田高校)へ入学しました。 

昭和4年(1929)  16さい

 南吉は中学の2年生になると、童ようや詩、童話などを作り始めました。昭和4年の日記には、「張紅倫(ちょうこうりん)」をはじめ童話15へん、小説9へん、童よう・詩155へんを作ったと書かれています。
 このころ、南吉は作った作品を、雑誌「緑草(りょくそう)、兎の耳(うさぎのみみ)・少年倶楽部(しょうねんくらぶ)」などに投稿(とうこう:新聞やざっしなどにのせてもらうために、原稿を送ること。)しました。また、その作品は半田中学で発行されるざっし「柊陵(しゅうりょう)」にのることもありました。さらに、地区では、仲間たちとともに「オリオン」という本を作り、創作活動にはげんでいました。